先日、西洋の地獄観とその変遷をめぐる長編ドキュメンタリー、「地獄の地図 悪しき魂が集う闇」の翻訳を担当させていただきました。
普段なら、ホラー系はおろかドンパチ系も苦手な臆病者なのですが、今回に関しては、サタンにそそのかされたのでしょうか。“地獄なんて面白そう”という純粋な好奇心と、ナビゲーターの渋いメキシコ系俳優 ダニー・トレホに惹かれて、自ら“やりたい!”と手を挙げたのです。
ところが、翻訳作業を始めて間もなく、能天気な“面白そう”は撤回することになります。
仕事部屋はたちまち数十冊の参考文献で埋め尽くされ、まさに地獄絵図と化しました。
インターネットのタブも同時に開きすぎて、クリックできないほど鋭くとがっています。クマを作りながら「地獄」や「悪魔」という名を冠した本を何冊も借りていく私を、図書館の人もさぞ不審に思ったことでしょう。Amazonのオススメ欄にも怪しげな本がズラ~っと並び始めました。地獄に乗り出す準備は万端です!
当初は、“西洋の地獄だけで90分も持つのかな”なんて余計な心配をしていましたが、蓋を開けたら“むしろ足りない!要シリーズ化!”と、即座に考えを改めました。それもそのはず、西洋の地獄観は、ギリシャ神話やユダヤ教、キリスト教、そのほかの様々な土着信仰が混ざり合って成長を遂げた、複雑極まりない怪物のような存在だったのです!最初は善悪の隔てもなく、死んだら誰もが行く地下の暗い世界だったのが、いつしか天国と地獄に分かれ、徐々にディテールが加えられて、やがて具体的な地獄像へと発展してゆきました。
その集大成ともいえるのが、14世紀イタリアの有名な作品、「神曲」に登場する地獄でしょう。
「神曲」は、政争に敗れ、人生に思い悩んだ中年の作者であるダンテ自らが死後の世界を巡る話ですが、盛沢山の地獄の風景は、まさに恐怖のテーマパークです。
大きく9つのエリアに分かれ、サタンと不気味な仲間たちが一堂に会し、絶叫系アトラクションも豊富です。
夜空を彩る花火はありませんが、救いのない暗闇には常に炎が燃え盛っています。
この炎のイメージは、旧約聖書にも登場するヒンノムの谷が原点ともいわれます。エルサレムの南に位置するヒンノムは、かつて子供のいけにえが行われたり、罪人の遺体が焼却されたりした場所でした。そこから絶えることのない炎のイメージが生まれ、のちの地獄のシンボルとして定着したのです。
また、各エリアにいるゆるキャラ(?)の多くは、ケンタウロスやハルピュイアといったギリシャ神話に登場する生き物たちであり、地獄の大ボス“サタン”のイメージは、ヨーロッパの土着信仰に登場する神々の特徴を吸収しながら変化してゆきました。こうした混交は、仏教、神道、道教にヒンドゥー教という様々なルーツの神々が共存する日本の七福神を連想させます。
さらに、罪の重さの順番は、当時ダンテが生きていた社会の価値観を色濃く映し出しています。殺人<自殺<同性愛の順に、罪がより重くなるのですが、今の日本で世論調査をすれば、おそらく真逆の回答が返ってくるのではないでしょうか。道徳や倫理といったものがいかに相対的なものなのか、物語っているように思います。
およそ3000年前、ヨーロッパで地獄の概念が生まれてから、ダンテの地獄にたどり着くまでに、様々な地獄像が生まれ、発展していきました。天国に比べてこれほど描写が豊富なのは、やはり怖いものほど私たちの想像力を掻き立てるからでしょう。まさしく、ホラーの先駆けです。何が起きるか知っておくことで恐怖を克服したいという思いもあるかもしれません。また、社会の秩序を維持するための抑止力として、あるいは統制するためのツールとして、恐怖というものが非常に扱いやすいものだったという側面もあるでしょう。“褒美をやるから働け”というよりも、“恐ろしい目に遭いたくなければ働け”という方が手っ取り早く、お金もかかりません。
ともあれ、地獄篇だけでも20以上の細分化された罪と罰を描き切ったダンテには、本当にお疲れさまと言いたいです。さらに煉獄篇(れんごくへん:罪を浄化し、天国に行くための試練の山)と天国篇まであるのですから、“もうちょっと現世を見て生きた方がよいのでは”とおせっかいな言葉の一つもかけたくなりますが、彼のおかげで見どころ満載の恐怖のテーマパークが完成したことには変わりありません。この引用だらけの壮大な叙事詩を翻訳した諸先輩方のご苦労は、まさに想像を絶します。
アメリカでは、今も70パーセントの人が地獄の存在を信じているという調査結果もありますが、“これほど壮大な人間の想像力の産物はない”、というのが翻訳を終えての正直な感想です。
もちろん、実際にあるとしたら絶対に落ちたくないと強く思いましたが、翻訳者にとってどんな地獄より恐ろしいのは、やはり締め切りであるということを再認識した旅でもありました。
次は別府で地獄めぐりでもしながら、地獄作品の再来に備えたい所存です。
杉田 洋子