もうすぐ桜の季節がやってきます。
満開の夜桜の下で、「まだちょっと寒いね」といいながら飲む酒は、格別においしいものです。
でも私は、こぼれんばかりに咲き誇った桜の花が、春風に揺れて舞い落ちる時期も好きです。
それは今年の桜の終わりであり、来年咲く桜にとって 始まりの時でもあるからです。
舞い落ちる桜を見ていると、こんなことを考えます。
なぜ“命”には、始まりと終わりがあるのか・・・
不老不死、永遠の命・・・ 人類は太古の昔から、その夢を追ってきました。
古代エジプトのファラオも、秦の始皇帝も、そして現代人も。
想像してみてください。 もし、あなたの友人が ある日「不老不死」の体を手に入れたとしたら。
あなたの友人は きっと、“なんてラッキーなことだ!”と飛び上がって喜ぶことでしょう。
これから、はるか何万年も先まで、果てしなく生き続けるのですから。
「いつか命が終わる。」などと心配をする必要はもうないのです。
一方あなたは、羨望のまなざしで友人を眺めるかもしれません。
でも、永遠の命を手に入れた人間は、ずっと幸せな生活を送れるでしょうか?
何万年も 何億年も・・・。
“死なないこと”は、果たして“生きている”と言えるのでしょうか。
手塚治虫さんは、「火の鳥」というシリーズの中で、こういうセリフを書き残しています。
「なぜこんなに天地は美しいのだろう。
そうだ、ここではなにもかも…生きているからだ!」
なぜ“命”には、始まりと終わりがあるのか・・・?
私は、こう考えます。
<次回に続く>
加藤 和彦